全力日和

俳優 窪田正孝さんに前のめり

『唐版 滝の白糸』を考えてみた

唐版 滝の白糸 について。初見から3度観ましたが、やっぱり解らんもんは解らん(爆)もちろん劇場で〝体感〟することが山ほどあるので、満足はしてるんですけどね… ^^; ネットの劇評や個人の方が書かれたブログなども読んだりしていますが、どうにも考えがまとまってきません。いやはや、困ったもんだ。

色々なご意見に目を通してたどり着いたのは、とにかくこの演目、解らなかったら「◯◯ということにする」と仮定して、自分でお話を作ってしまえ〜ということ。妄想したもん勝ちってやつです。実際ご覧になった方の感想に「実はアリダは始めから死んでいたのではないか」とかなり大胆な想定をされてる方もいて(!)斬新すぎるとはいえ、なるほど〜それくらいのつもりで観たほうが面白いかもね、なんて思っちゃいました。

なので強引に、この話を「アリダの成長物語」として捉えてみることにしました(またですか? 笑)プログラムの中で窪田くんも「アリダは最初何者でもない」と言っていますが、そんなアリダが銀眼鏡からは「穢れた大人」の部分を、そしてお甲からは「男性としての目覚め」を与えられる…そんなお話。水芸はその媒介というか…劇中、地面の下に張り巡らされる水道管と蛇口の水という組み合わせを、血管と血液に例えるようなセリフをお甲が喋っていて印象に残ったんですよね。羊水がこびりついていると銀眼鏡に言わせたアリダ君が、「血の洗礼」を受けてまさに「生まれ直す」!(「生まれ直す」は、実はどなたかのブログで見た借り物の表現なのですが、すごく的を射ていると思いました。〝生まれ変わる〟のではなく〝生まれ直す〟んだよね。^^)

あれ?なんだ。アリダが主役じゃん(笑)

血を浴びた後は、空高く昇ってゆくお甲をアリダが激しく求めるのですが、汚いもの、歪んだもの、いびつなものって実は生きていく上で必要なもの。そこに人間そのものが投影されていることもあるし、本能的に欲しくなるし、無性に掻き立てられる部分でもある。それは唐さんの世界観とも繋がるし、蜷川さんが仰っていた「こんな時代だからこそ観てほしい作品」っていうの、ずっと何だろうと思ってたけど、そういうことなのかもしれないなと思いました。

銀眼鏡の出番終わりのほうで、平さんが客席に向かって(これもうろ覚えですいません)「なに見てんだよ」みたいなこと言うシーンあるんだけど、あれって「お前らも俺とおんなじ(ように穢れてる)だろ?」って言ってるように見えてハッとするんですよね。銀眼鏡が歳をとりすぎてるというご意見も読んだけど、私はあのくらいがちょうどいいと思う。初老の設定のほうが「まみれ感」が出ますもの(笑)

ラストシーン。新たに「生」を得たアリダの表情は、「驚愕」を表していたのかもしれません。まさに「羊水の外」へ出てきちゃったんですから。自分自身も邪悪にまみれた怪物になっちゃってるけど、初めて目にする世界に対する畏れのような感情も見て取れる…そういうお顔だったように思います。

もちろん、流し台が空を飛ぶとか、兄も弟もアリダという名前だとか、2階から手首を抑えて出てきたのはどっちのアリダだったのかとか、何故どうしての部分はまだまだいっぱいあるんですけどね ^^; そこはもういいかなあ〜 あはは。

なんか、書いてたら少しだけど前進したかも。まとめるって大事ですね。(笑)

東京千秋楽、近づいてきたなあ…。お声が引き続き大変な感じらしいけど窪田くん…頑張れっ!